40年以上前、父が張替えた波板トタンの屋根を修理した。先月の事だ。「屋根を直す。」と言って、父と一緒に近所の材木屋へ波板トタンを買いに行ったのは小学校の頃だったか。お手伝いと称して、頭にトタンを乗っけて一緒に歩いた。父は作業小屋の波板トタン屋根を直した。「職人ではなく私が修理したのだ。」と。だからなんだろうか。錆びている波板トタンの景色は、いつも美しく私には映る。
トタンは錆びる。戦後復興の代表選手として、錆びた波板トタンは、善悪どちらにも評価の振り幅を変える素材であるが、この景色なくして我が家は語れない。
今回の修復に「昭和30年」を設定したのに波板トタンは多少なりとも関係がある。我が家の景観を私なりの答えにしたいと思うのだ。
きっと単に雨漏りしている屋根を修理しただけの父にしてみれば、ビックリしたに違いない。だって、そこに作為は全くないのだから。「作為の無さ」を波板トタンという素材が実現させたとも言える。浸食・錆・クラック・滲み…。どれも、そこにあるのは時の経過だけ。こんな難しい事を考えなきゃならんのも、はつった板の後ろから、ついついジックリ見つめてしまう壁が出てきたから…。
職人の技、まずこれはあるだろう。それを裏打ちする素材もある。ならば波板トタンはどう捉えたらよいのだろう。そこには「材が良い」と「高価な材」との因果関係を超えたバリューが潜んでいるとかいないとか。